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本末転倒の恐ろしい裁判員制度

200975

宇佐美 保

 昨年、私は、裁判(民事)を、原告の知人の方に誘われて、生まれて初めて傍聴しました。

傍聴席に座り一望すると(一望するほど広くはありませんでしたが)まるで、映画やテレビでも見ているようで興奮してしまいました。

原告側の弁護士は、薄汚れた(?)ズボンにワイシャツ姿で、机の下には書類をはちきれるほど入れた紙袋を置いて、一人で奮闘していました。

一方、被告側(大会社)の67人の弁護士(女性も含めて)は全て黒ずくめのスーツ姿で、勿論彼らの机の下には紙袋ではなく、黒の立派な皮製の角型の鞄が置かれていました。

 

 でも、暫くすると、裁判の進行が気になり始めました。

弁護士は、もっと別な面を問題視すべきであり、質問すべきであるとか・・・・・・

(一人の裁判官(判事)は、舟を漕ぎ始めました)

 

 その上、裁判終了後には、原告や弁護士に次の裁判へも助言(?)などを披露する始末でした。

 

こんな事でしたから、私も裁判員に任命されたら、正義の旗を高々と掲げ、喜び勇んで裁判に参加して、より良き裁判が行われるように全力を尽くそうと、青い尻を一層青くしました。

 

 

 ところが、52日の朝日ニュースター「ニュースにだまされるな!」の「始まる裁判員制度 問題点は?」との番組を見て、気になることを23つ耳にし、私の首は傾き始めました。

(しかし、2ヶ月前のことなのではっきりした記憶が戻ってこないのが残念です)

 

 先ずは、

“裁判中に裁判官が結構居眠りしているのですよ”

との阿曽山大噴火氏(「裁判傍聴芸人」と名乗っておられ、何度も裁判を傍聴されておられる不思議な芸名の方)の発言されました。

この件は私が傍聴した場合と同じでしたが、驚いたのはこの発言を受けての、梓澤和幸氏(弁護士)の次なる発言です。

 

“裁判官の居眠りを、私達弁護士は非難して起してはいけないんですよ。

そのような場合には、暫く黙っているのが良いのです。

人間誰しも、今まで騒がしかったのに、急に静かになると、目を覚ますものなのです。

なにしろ、その場で、裁判官に恥をかかせたら、後でどんな仕返しがあるか判りませんからね!”

 

 

 という事は、日頃の弁護活動において、弁護士は常に裁判官の心証を考慮しながら、発現行動していなければならないのだと!と言う事を思い知らされます。

 

 更に、阿曽山大噴火氏は次のようにも発言されたと記憶しています。

 

“色々と裁判を傍聴してきましたが、
裁判官は「検察の筋書き通り」に裁判を進めてゆくようでした。”

 

 

 この件は、確かに、周防監督による「痴漢冤罪事件」に関する映画『それでも僕はやっていない』を見ると十分に納得します。

 

 

 更には、阿曽山大噴火氏は次のような発言をされたと思います。

 

 

勿論、私は、裁判員に任命されたら裁判に参加して自分の意見を述べてきます。

 

 

 しかし待ってください。

「検察の筋書き通り」に進んでいる裁判を、万が一にも、一市民(例えば、阿曽山大噴火氏)がひっくり返してでもしたらどうなりますか!?

 居眠りを注意しただけでも報復(?)されるというのに〜〜!

 

映画『十二人の怒れる男』のように事は進まないのです。

『十二人の怒れる男』は、米国の映画であって、米国は陪審員制度ですから、陪審員だけでの議論です。

(裁判官をやり込めているのではありません)

 

それにです。

 

 この裁判員制度には、「裁判員の守秘義務(感想を述べるのは可)」があるそうですから、うっかり阿曽山大噴火氏が、ご自身が裁判員として活躍した裁判に関して、(詳しい内容を除外して)感想程度をメディアで話したら大変な事になるかもしれません。

「守秘義務違反容疑」と拡大解釈されて、阿曽山大噴火氏は家宅捜査を受けとんでもない報復を受けるかもしれません。

それをマスコミは面白がって報道するかもしれません。

 

 

 阿曽山大噴火氏は、次のようにも発言していました。

 

 

“この制度は、3年後には見直すということですから、先ずは実施してみるべきです。”

 

 

待ってください〜〜!冗談ではありません!

「裁判員制度」の実施は、「芝居を舞台にかける」とは意味が違うのです。

芝居は絵空事ですから、悲劇を喜劇にも台本を直すだけで変える事も出来ます。

しかし、裁判は絵空事ではありません。

「被告の人生」が、見直されるべき不十分な(?)制度で左右されてしまうのです。

3年後に制度を改正しても不都合な裁判員制度で判決を下された被告の方の人生を逆戻しする事は出来ないのです。

私が、被告であったら、とても耐えられません。


その上、制度は兎も角、簡単に小泉劇場に酔ってしまう大衆(私も含めて)に命を預けるなんかとても我慢できません。

勿論、私の友人達の能力にさえ大いなる疑いを持っています。

(彼らに書類を読む能力を期待する事は不可能です。

なにしろ日頃彼らに “私のホームページを読んで!”と頼んでいても、ほとんど誰も読んでくれません。

それでも、その内容を説明すると“成る程そうだね”と言ってくれるのに!)

勿論、私自身も裁判関係の書面を見いても、その用語内容を理解するのが困難です。

 

 

 

 これから先は暫く下種の勘繰りを(引き続き?)書かせて頂きます。

 

 

 

万が一にも、プロである裁判官が、素人集団にやり込められて、
検察の筋書きがひっくり返される事態を招いたらどうなるのでしょうか?

 

 現在の裁判で、有罪率99%以上(被告が否認している場合は97%)である背景の一つには、裁判官が「検察の筋書き」に逆らった後の自らの人生を心配するからではないでしょうか?

この点は、先の周防監督の映画からも窺われます。

(有罪率9799%に逆らって、
逆転無罪判決をされた裁判官のその後の人生はどうなったのでしょうか?

マスコミはこの種の追跡調査をされたのでしょうか?)

 

 そして、

「検察の筋書き」をひっくり返した張本人(裁判員)の運命はどうなるのでしょうか?

それは、先にも書きました阿曽山大噴火氏の辿るであろう運命となるのではありませんか!?

 

 

 

 朝日新聞(200971日オピニオン)の紙面で、「裁判を変える」との題で、周防正行氏(映画『それでもボクはやってない』の監督)と今村核氏(作品中に登場する冤罪と闘う弁護士のモデル)の対談が掲載されていましたので抜粋させて頂きます。

(そして、この対談を読ませて頂くと、「おいおい!裁判員制度など止めてくれ!と誰もが怒鳴りたくなると存じます」

 

 

周防
「それでもボクはやってない」は、こんな司法制度でいいのかという怒りで撮ったわけですが、
当時は裁判員制度が「開かれた司法」を実現するきっかけになるのではないかと期待を持ちました
ところが始まってみると、
裁判所はこれまでのやり方への反省がないまま進めようとしているので、
多くの国民は私のめいと同様、
裁判員制度がなぜ必要なのか理解できないまま受け入れるはめになっている。残念でなりません。

  

 

今村
 裁判員法1には「司法に対する国民の理解の増進とその信頼の向上に資する」と目的が書いてある。
制度設計者の裁判官は注釈書で
「現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価を前提として」

裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とする」と書いています。
「白分たちはちゃんとやっている。それは参加してもらえばわかる」と言っているわけです。

 

 

周防
新聞などでは
「市民が参加することで、一般常識を裁判に反映させるための制度」
というのが枕詞になっていますが、
裁判官の本音は違うんですね。

  

 

今村
裁判員制度の出発点となった司法制度改革審議会の段階では
裁判内容に国民の社会的常識を反映させる」と言っていましたが、
法律になる段階でなぜか抜け落ちています
「健全な社会常識を反映させることにより裁判の適正化をはかる」という言葉を入れるべきです。

 

 

 驚きませんか?

裁判員制度は「裁判の正統性に対する国民の信頼を高めることを目的とする」と言うのですから!

その上その前提たるや「現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価」と言うのですから!

 

 それに、当初新聞などが伝えた「市民が参加することで、一般常識を裁判に反映させるための制度」も可笑しなものです。

裁判官らには「一般常識」が欠落していると宣告しているのですから!

(悲しい事にそうなのでしょうか?)

 

 そして、次の周防監督の談話は尤もです。

 

 

 

周防

職業裁判官による裁判がちゃんと機能しているなら、
なんで素人の自分たちがかかわらなければいけないんだ、

というのが多くの人の素直な思いです。

しかし、職業裁判官であるがゆえに間違えてきてしまったこともあるんだ、と。

そういう共通認識がないと、一般市民が参加する意味はわからないですよ。
僕はかつて冤罪について
「ベストを尽くしたけど、人間のやることだから、どこかで致し方のない間違いが起きたんだろう」
と思っていた

ところが実際は、「えっ、こんなのシステムの問題じゃない?」とか
「これでベストを尽くしたと言えるのか?」とかいうようなところで冤罪が起きている。

痴漢冤罪事件の取材で、「疑わしきは被告人の利益に」という刑事裁判の大原則は
日本には存在しないと思いました。

痴漢事件でいえば、被告人の言い分が検討されることはほとんどなく
被害者証言の信用性の判断だけで、有罪判決が出される。検察官の言うとおりに認定されていくのです。
有罪のハードルはこんなに低いのかと思いました。

 

 

 

 

 ここでの、“痴漢事件でいえば、被告人の言い分が検討されることはほとんどなく、被害者証言の信用性の判断だけで、有罪判決が出される。検察官の言うとおりに認定されていくのです。”に関しては、インターネット「AAA植草一秀氏を応援するブログAAA」に引用されている「植草一秀氏への判決要旨」を見ると納得できます。

 

 

 先に記述しました“私自身も裁判関係の書面を見いても、その用語内容を理解するのが困難です”の例として、次の今村氏の発言にある「判決の補足意見」を皆様もご理解頂きたいのです。

 

 

今村
今年4月、痴漢事件で一、二審ともに有罪判決を下された防衛医大教授に対して、
最高裁は逆転無罪判決を出しました

私も弁護団の一人として参加しましたが、判決の補足意見は、
複数の裁判官が供述の信用性に疑いを持ち、しかもその疑いが単なる直感や感想を超えて、
論理的に筋の通った明確な言葉によって表示されている場合には、
有罪に必要な『合理的な疑いを超えた証明』はなされていないものとして処理されるのが望ましい
」と述べた。
これはつまり、裁判官でなくても、複数の裁判員が疑わしい点を具体的に指摘した場合は、
合理的な疑いがあるものとして処理されるのが望ましい、とも聞こえる。裁判員に向けたメッセージだと思いました。

 

 

 この件に関する「判決」をインターネットを探していましたら《最高裁第3小法廷;痴漢事件で防衛医大教授に逆転無罪(09年4月14日)》を訪ねる事が出来ました。

 

 そこに掲載されている「判決の一部」を以下に抜粋させて頂きます。

(しかし、この判決文を読むのは私には大変困難でした)

 

2 関係証拠によれば,次の事実が明らかである。

(1) 被告人は,通勤のため,本件当日の午前7時34分ころ,小田急線鶴川駅から,綾瀬行き準急の前から5両目の車両に,Aは,通学のため,同日午前7時44分ころ,読売ランド前駅から,同車両に乗った。被告人とAは,遅くとも,本件電車が同日午前7時56分ころ成城学園前駅を発車して間もなくしてから,満員の上記車両の,進行方向に向かって左側の前から2番目のドア付近に,互いの左半身付近が接するような体勢で,向かい合うような形で立っていた。

(2) Aは,本件電車が下北沢駅に着く直前,左手で被告人のネクタイをつかみ,「電車降りましょう。」と声を掛けた。これに対して,被告人は,声を荒げて,「何ですか。」などと言い,Aが「あなた今痴漢をしたでしょう。」と応じると,Aを離そうとして,右手でその左肩を押すなどした。本件電車は,間もなく,下北沢駅に止まり,2人は,開いたドアからホームの上に押し出された。Aは,その場にいた同駅の駅長に対し,被告人を指さし,「この人痴漢です。」と訴えた。

そこで,駅長が被告人に駅長室への同行を求めると,被告人は,「おれは関係ないんだ,急いでいるんだ。」などと怒気を含んだ声で言い,駅長の制止を振り切って,車両に乗り込んだが,やがて,駅長の説得に応じて下車し,駅長室に同行した。

(3) Aが乗車してから,被告人らが降車した下北沢駅までの本件電車の停車駅は,順に,読売ランド前,生田,向ヶ丘遊園,登戸,成城学園前,下北沢である。

 

3 Aは,第1審公判及び検察官調書(同意採用部分)において,要旨,次のように供述している。

「読売ランド前から乗車した後,左側ドア付近に立っていると,生田を発車してすぐに,私と向かい合わせに立っていた被告人が,私の頭越しに,かばんを無理やり網棚に載せた。そこまで無理に上げる必要はないんじゃないかと思った。その後,私と被告人は,お互いの左半身がくっつくような感じで立っていた。向ヶ丘遊園を出てから痴漢に遭いスカートの上から体を触られた後,スカートの中に手を入れられ,下着の上から陰部を触られた。登戸に着く少し前に,その手は抜かれたが,登戸を出ると,成城学園前に着く直前まで,下着の前の方から手を入れられ,陰部を直接触られた。触られている感覚から,犯人は正面にいる被告人と思ったが,されている行為を見るのが嫌だったので,目で見て確認はしなかった。成城学園前に着いてドアが開き,駅のホーム上に押し出された。被告人がまだいたらドアを替えようと思ったが,被告人を見失って迷っているうち,ドアが閉まりそうになったので,再び,同じドアから乗った。乗る直前に,被告人がいるのに気付いたが,後ろから押し込まれる感じで,また被告人と向かい合う状態になった。私が,少しでも避けようと思って体の向きを変えたため,私の左肩が被告人の体の中心にくっつくような形になった。成城学園前を出ると,今度は,スカートの中に手を入れられ,右の太ももを触られた。私は,いったん電車の外に出たのにまたするなんて許せない,捕まえたり,警察に行ったときに説明できるようにするため,しっかり見ておかなければいけないと思い,その状況を確認した。すると,スカートのすそが持ち上がっている部分に腕が入っており,ひじ,肩,顔と順番に見ていき,被告人の左手で触られていることが分かった。その後,被告人は,下着のわきから手を入れて陰部を触り,さらに,その手を抜いて,今度は,下着の前の方から手を入れて陰部を触ってきた。その間,再び,お互いの左半身がくっつくような感じになっていた。私が,下北沢に着く直前,被告人のネクタイをつかんだのと同じころ,被告人は,私の体を触るのを止めた。」

 

4 第1審判決は,Aの供述内容は,当時の心情も交えた具体的,迫真的なもので,その内容自体に不自然,不合理な点はなく,Aは,意識的に当時の状況を観察,把握していたというのであり,犯行内容や犯行確認状況について,勘違いや記憶の混乱等が起こることも考えにくいなどとして,被害状況及び犯人確認状況に関するAの上記供述は信用できると判示し,原判決もこれを是認している。

5 そこで検討すると,被告人は,捜査段階から一貫して犯行を否認しており,

本件公訴事実を基礎付ける証拠としては,Aの供述があるのみであって,物的証拠等の客観的証拠は存しない(被告人の手指に付着していた繊維の鑑定が行われたが,Aの下着に由来するものであるかどうかは不明であった。)。被告人は,本件当時60歳であったが,前科,前歴はなく,この種の犯行を行うような性向をうかがわせる事情も記録上は見当たらない。したがって,Aの供述の信用性判断は特に慎重に行う必要があるのであるが,(1) Aが述べる痴漢被害は,相当に執ようかつ強度なものであるにもかかわらず,Aは,車内で積極的な回避行動を執っていないこと,(2) そのことと前記2(2)のAのした被告人に対する積極的な糾弾行為とは必ずしもそぐわないように思われること,また,(3) Aが,成城学園前駅でいったん下車しながら,車両を替えることなく,再び被告人のそばに乗車しているのは不自然であること(原判決も「いささか不自然」とは述べている。)などを勘案すると,同駅までにAが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性にはなお疑いをいれる余地がある。そうすると,その後にAが受けたという公訴事実記載の痴漢被害に関する供述の信用性についても疑いをいれる余地があることは否定し難いのであって,Aの供述の信用性を全面的に肯定した第1審判決及び原判決の判断は,必要とされる慎重さを欠くものというべきであり,これを是認することができない。被告人が公訴事実記載の犯行を行ったと断定するについては,なお合理的な疑いが残るというべきである。

 

第3 結論

以上のとおり,被告人に強制わいせつ罪の成立を認めた第1審判決及びこれを維持した原判決には,判決に影響を及ぼすべき重大な事実誤認があり,これを破棄しなければ著しく正義に反するものと認められる。

そして,既に第1審及び原審において検察官による立証は尽くされているので,当審において自判するのが相当であるところ,本件公訴事実については犯罪の証明が十分でないとして,被告人に対し無罪の言渡しをすべきである。

よって,刑訴法411条3号により原判決及び第1審判決を破棄し,同法413条ただし書,414条,404条,336条により,裁判官堀籠幸男,同田原睦夫の各反対意見があるほか,裁判官全員一致の意見で,主文のとおり判決する。なお,裁判官那須弘平,同近藤崇晴の各補足意見がある。

 

 

 このような判決に対して、

「複数の裁判官が供述の信用性に疑いを持ち、しかもその疑いが単なる直感や感想を超えて、
論理的に筋の通った明確な言葉によって表示されている場合
には、
有罪に必要な『合理的な疑いを超えた証明』はなされていないものとして処理されるのが望ましい」
を満足しているとは私には思えません。

1に、
Aが述べる痴漢被害は,相当に執ようかつ強度なものであるにもかかわらず,
Aは,車内で積極的な回避行動を執っていないこと
」ですが、
裁判官堀籠幸男の反対意見」にある
被害者Aが車内で積極的な回避行動を執っていない点で・・・,羞恥心などから,我慢していることは十分にあり得」の見解を私は支持します。

 

 この件に関しては、なにやら、私の自慢話のようですが、拙文《筑紫哲也氏と植草一秀氏と大きな力(2》の一部を抜粋させて頂きます。

 

学生のころ、上野の文化会館でのオペラの帰りの空いている電車の中で、
女子大生(?)とそのお母さんがつり革を手に立っておられ、
その横でその女子大生に痴漢行為(?)に励んでいる男を目撃しました

 

 女子大生は迷惑そうな顔をされ、
お母さんも困った表情をされておりました。

それでも、お二人は、声を発す事が出来ず、「蛇に睨まれた蛙」状態でした


ですから、私は、お二人に近寄って行き、
“やあ、今晩は、今夜のオペラの切符を手にする為に、
一緒に銀座の鳩居堂の横の路地で(寝袋で寝たり)徹夜して並んだりと大変でしたよね。”
と、さも、友達然として、女子大生に声をかけました。

 すると、痴漢はすごすごとその場を離れ次の駅で下車しました。

そして、私は、お二人から感謝の言葉を頂きました。

 

 

 

 と申しましても、

今回の被害者Aが、陰部まで触られる痴漢行為を受け続けながら、
捕まえたり,警察に行ったときに説明できるようにするため,しっかり見ておかなければいけないと思い
その状況を確認した
」と思考行為を、私には(男性である為か?)とても理解できません。

(男性たる私は「捕まえたり・・・」と、自ら痴漢を捕まえてやろうと思う強い気持ちには、賛同できますが・・・

観察出来る余裕があるなら、痴漢行為から逃げるのが先決ではないかな?と思ってしまうのです)

 

 

 このような私の体験から、「裁判官堀籠幸男の反対意見」を部分的には肯定出来ます。

しかし、堀籠氏の反対意見に別の面から疑問を持ちます。

 

被告人の供述については,その信用性に疑いを容れる次のような事実がある。

(1) 被告人は,検察官の取調べに対し,下北沢駅では電車に戻ろうとしたことはないと供述しておきながら,同じ日の取調べ中に,急に思い出したなどと言って,電車に戻ろうとしたことを認めるに至っている。これは,下北沢駅ではプラットホームの状況についてビデオ録画がされていることから,被告人が自己の供述に反する客観的証拠の存在を察知して供述を変遷させたものと考えられるのでありこうした供述状況は,確たる証拠がない限り被告人は不利益な事実を認めないことをうかがわせるのである。

 

 

 この堀籠氏の見解は、被害者の供述に対する「判決文の指摘」にも適用できます。

 

Aが,成城学園前駅でいったん下車しながら,車両を替えることなく,再び被告人のそばに乗車しているのは不自然であること(原判決も「いささか不自然」とは述べている。)などを勘案すると,同駅までにAが受けたという痴漢被害に関する供述の信用性にはなお疑いをいれる余地がある

 

 

 

被害者Aには御気の毒ですが、この不自然な「成城学園前駅でいったん下車・・・」の件は、
下北沢駅ではプラットホームの状況についてビデオ録画がされていることから
同様に「成城学園前駅」でもビデオ録画されている事を裁判前の供述書の作成時に検察側から示唆されていて、
この被害者としては不利な、一旦下車を認めざるを得なかったのかもしれません。

(この件は、「裁判官那須弘平の補足意見」の次なる記述からも推測できます。

検察官としても,被害者の供述が犯行の存在を証明し公判を維持するための頼りの綱であるから,
捜査段階での供述調書等の資料に添った矛盾のない供述が得られるように被害者との入念な打ち合わせに努める
」)

 

 更に、

被害者(A)の方には御気の毒ですが、
この「
Aが,成城学園前駅でいったん下車しながら,
車両を替えることなく,再び被告人のそばに乗車しているのは不自然
」と、
Aは,車内で積極的な回避行動を執っていない」の件を加味して考えますと、
一般的な痴漢にとっては、「Aが痴漢行為を肯定している」と誤解するかもしれません。

 

 

 それに、

被害者(A)の
「被告人が、私の頭越しに,かばんを無理やり網棚に載せた。そこまで無理に上げる必要はないんじゃないかと思った
との供述は、
「被告人が痴漢行為の準備動作を行った」との意味なのでしょうが、
痴漢行為は左手だけで行われたのではないのでしょうか?

それに、かばんを網棚に載せる行為は電車の中(特に混んだ)のエチケットです

逆に、通学途上だった被害者(A)はかばんをどうされていたのでしょうか?

かばんを痴漢防止には活用できなかったのでしょうか?

 

 

 しかし、

この判決文中の
被告人は,本件当時60歳であったが,前科,前歴はなく,この種の犯行を行うような性向をうかがわせる事情も記録上は見当たらない
と言う記述に脅威を感じました。

これでは一度、罪を犯したら、或いは、冤罪に陥れられたら、
その後の人生は闇と化しまいます。(更生の道は、閉ざされてしまいます)

被疑者となったら、彼の供述は信頼性を得る事が出来ないのですから!


 

 いずれにしても、


私がこの裁判の裁判員なら、
この「判決文」に全面的な賛成はしないでしょう。

只、「裁判官那須弘平の補足意見」に記述された
「疑わしきは被告人の利益に」の原則を適用して,無罪の判断をすべきであると考える。”で、
私は被告人無罪を主張するでしょう。

 

 それにしましても、

何故、最高裁に来る前の、1審で
疑わしきは被告人の利益に」が適用されて無罪となっていなかったのでしょうか!?

これでは、裁判員制度を云々する前提たる
現在の刑事裁判が基本的にきちんと機能しているという評価」に退場を願わねばなりません。

 

 
 しかも、

物的証拠等の客観的証拠は存しない
(被告人の手指に付着していた繊維の鑑定が行われたが,Aの下着に由来するものであるかどうかは不明であった)

とはいえ
「被告人は,捜査段階から一貫して犯行を否認しており」ではなくて、
捜査段階で犯行を肯定しており」であったならば
裁判中に、どんなに、「犯行を否認しても」無罪を勝ち取る事は出来なかったでしょう



 その上、次の今村氏の談話から、裁判員制度を導入する結果、とんでもない事態が発生する事が分かります。

 

 

今村

・・・しかし一方で、裁判員制度開始に向けて行われた刑事訴訟法の一連の改正で、それまで認められていた被告人の防御権を制限することで、裁判を拙速に進めようとする方向性がある。この点は見直すべきです。その一つ「公判前整理手続き」は、裁判官が主宰し、公判開始前に検察官、弁護人双方に予定する主張を明らかにさせ証拠を請求させて、争点を絞り、証拠の採否を決める手続きです。

・・・

最高裁の司法研修弁護側は、予定する主張を示さないと、それに関連する検察官手持ちの証拠の開示を受けられない所が出している「司法研究報告」などを見ると、「裁判員に過大な負担はかけられない」というキーワードが出てきます。そのため審理期間はできるだけ短くする。3日間とかに。そのため証拠の量は全体として減らさないといけないので、重複する証拠や無駄な争点を背くと言います。

 そして、裁判所は分刻みの審理計画を立てます。例えば3日という審理期間に押し込むために、「この証人の尋問時間は何分、うち主尋問に何分、反対尋問に何分」という進行表を作る。先の司法研究報告には、公判で新たな主張や新たな証拠請求をして審理計画から逸脱することは、「裁判員が被る迷惑が甚だしいことはもちろん、制度そのものを揺るがしかねない」と言います。

 この制度では「やむを得ない事由」がない限り、公判前整理手続き後に新たな証拠の請求はできません。しかし以前私が二審から担当した事件では、一審で有罪でしたが、二審の途中でアリバイを示す新たな物証や真犯人を示す新たな証人を見つけて証拠請求し、逆転無罪になったことが一度ならずあります今後弁護活動はかなり制約を受け、そのことによる誤判が心配です

 



 

この 「裁判員に過大な負担はかけられない」というキーワード”の下に

裁判を拙速に進めよう

「裁判官が主宰し、公判開始前に
検察官、弁護人双方に予定する主張を明らかにさせ
証拠を請求させて、
争点を絞り、証拠の採否を決める」

やむを得ない事由」がない限り、
公判前整理手続き後に新たな証拠の請求はできません


というのです。

 

ところが、今村氏は「しかし以前私が二審から担当した事件では、一審で有罪でしたが、二審の途中でアリバイを示す新たな物証や真犯人を示す新たな証人を見つけて証拠請求し、逆転無罪になったことが一度ならずあります今後弁護活動はかなり制約を受け、そのことによる誤判が心配です。」と語っているのに、「公判で新たな主張や新たな証拠請求をして審理計画から逸脱することは、「裁判員が被る迷惑が甚だしいことはもちろん、制度そのものを揺るがしかねない」と、

被告の権利」よりも
裁判員が被る迷惑
そして「制度そのもの」を大事にするというのですから、
恐ろしい事です。

 

 

 このように「被告の権利」よりも「制度そのもの」を重視するような「裁判員制度」は「3年後に見直す」と言わず、直ぐに廃止して欲しいものです。

 

 

 そして、先の拙文《検面調書偏重と闘った石島泰氏》にも記述しましたが、「冤界の温床」となる「検面調書」(取り調べ段階の自白)に力を与えている「刑事訴訟法321」の撤廃を実施すべきと存じます。

 

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